キングダム考察|昌平君の裏切り!秦から楚へ!項燕と共に楚の最終戦に挑む!
秦国の右丞相であり軍総司令として君臨している昌平君です。
元は呂不韋の食客で呂氏四柱の一人として存在していました。
史実では、楚の王族でありながら秦における要人を経て、最終的には楚の王に君臨します。
歴史同様に、キングダムでも秦国を裏切る日が来るのでしょうか。
昌平君が嬴政の怒りを買って丞相から罷免されるのは、楚を攻める時でした。
王翦の言葉ではなく、李信を信じて20万の兵を繰り出した嬴政でした(秦国は敗北します)。
⇒信と蒙恬、楚の歴史的な大敗
この時に王翦を将軍から外した事を政に間違いであると指摘します。
鄴攻めにおいても、王翦と昌平君には一つの絆が結ばれていた状態となります。
昌平君の師匠でもある、六将の胡昜の言葉があったのも事実です。
軍略の才だけで六将の席に割り込んでこれる逸材。
-胡昜-
(キングダム46巻より)
この王翦を差し置いての大国楚の侵略はあり得ないと考えていたのかもしれません。
楚の公子である昌平君
キングダムにおいても昌平君が楚の生まれであることは語られています。
史実では、昌平君は楚の公子(王族)となります。
後に楚の考烈王となる人物が、まだ王になる前に生まれています。
キングダムでは考烈王に子がいないとされているのがミソです。
当時は国同士で王族を人質にしながらの同盟が横行していました。
政の在り方もまた、それに近いものがあったのを読者は知っているでしょう。
同じく楚からは春申君と昌平君が共に人質として秦国に留まっていました。
現状の説では、媧燐の弟という話が登場しており、=昌平君の可能性も否定出来ません。
というよりも、恐らくそうでしょう。
媧燐と昌平君が考烈王の子供であった可能性は説として支持されている部分でもあります。
考烈王には子供がいなかった、という描写があります。
もし媧燐と昌平君が考烈王の子供であるのなら、事実が隠されたと言う事になります。
ちょうど摎(きょう)と同じ様なエピソードがあるのかもしれません。
但し、媧燐そのものは史実には存在しません。
楚との大戦に昌平君
秦国は一度目の侵攻で李信と蒙恬に20万を率いらせて楚を攻めています。
途中まではこの進軍も大勝利といえる成果をあげていましたが容易には事は進みません。
李信と蒙恬の軍は楚の首都である郢を攻めるべく侵攻を続けていました。
そこで昌平君のいる郢陳で反乱が起きました。
これを鎮めるべく李信将軍が動き出した所を項燕の奇策を喰らって大敗を喫してしまいます。
昌平君と項燕の策によるものだったと言えます。
この時代の秦国における最大級の大敗と言えるものでした。
恐らくこの大敗で飛信隊に元からいる古参の殆どが死んでしまうだろうと推察されます。
歴史的に見れば、この時代に秦国が一時的にも領地を取り戻された事実はこの項燕の一件と李牧VS桓騎の戦しかありませんでした。
桓騎の弱点をついた李牧の策によって、桓騎は敗北してしまいます。
この20万の出兵の後、秦国は王翦の元の策を採用する事になります。
王翦と蒙武が率いる60万で楚を攻め入る策となりました。
この60万という数字は秦国軍の全軍だったと言われています。
李信と蒙恬の敗北は大きすぎるものではありましたが、処刑するには至らなかったという事になります。
この軍にも参加しているのでしょうが、昌平君の裏切りというやむを得ない事情があったと言えます。
キングダムでも色濃く描かれるのはほぼ間違いありません。
昌平君が楚王になる
王翦と蒙武が60万を率いて楚を再度攻めた時の楚王は負芻でした。
その楚王である負芻は捕えられてしまいます。
キングダムでも分かる様に考烈王には子供がいない事になっています。
春申君は自分の子供を身ごもった女を考烈王に妾として渡しています。
次の王となるが弟である異常性の極みの様な人物だったのが原因となっています。
考烈王も春申君も産んだ女の実兄である李園も納得しての国家を維持する策でした。
しかし、春申君が考烈王が死んだ後で「王の血を途絶えさせる方が罪深い」として王弟への継承を言い出します。
李園は自分と自分の妹を守る意味でも、春申君の暗殺を企てたと言っていました。
この後で出てきたのが、先の媧燐の荒野で弟を探しているという話となります。
言ってみれば李園も媧燐も同じであろうと言う所でしょう。
話を戻して王翦と蒙武によって史実でも形だけと言える楚の王が捕らえられてしまいました。
実態はキングダムでも、李園と媧燐が運営していた事になります。
ここで、楚は滅んだに思えました。
しかし、生き残った項燕は昌平君が楚の公子である事を利用して、昌平君を楚王として君臨させます。
ここで項燕と昌平君の2つが相まみえる楚の復活となりました。
但し、すでに王翦と蒙武によって、敗れてしまった楚の立て直しを行うのは簡単な事ではありませんでした。
結果的に昌平君は楚の王になって間もなく殺されてしまいます。
それと同時に項燕も自害して、この戦は終結を見たのです。
昌平君の裏切りの理由
昌平君は秦国において、右丞相という地位にまで上り詰める人物です。
元は呂不韋の四柱であり、その後は贏政に仕えて大きな功をなし続けます。
最初の功績として有名なものが毐国の嫪毐の反乱でしょう。
ここで呂不韋を裏切って秦国に付く事を明言しているシーンがキングダムにもありました。
世話になったと言う昌平君でしたが、自分の思う道に対して真っ直ぐな印象がありました。
昌平君の地位を見れば、秦国内で言う所の嬴政の次の職位と言えます。
元はそれを捨てた昌平君と言われていましたが、史実では「罷免」が原因でした。
王翦の策を使わない嬴政に対して、厳しい言葉で諌めたとされます。
キングダムにおいて、この様な自体がなぜ起こるのでしょうか。
今の所は考えられませんが、王翦が「王になりたい」という欲求を叶えるべく昌平君と話を進めていた場合はどうでしょうか。
場合によっては、王翦が戦に出なければ勝てず、それを実施する為に王翦の言い分を多く汲み取る必要があったのかもしれません。
勿論純粋に勝利の為に李信を総大将では心もとないと考えていたのかもしれません。
キングダムでどの様に描かれるのかは未知数と言えます。
呂不韋の次に現れた、王の乗っ取りを画策する昌平君となれば、安易にどちらの意見を採用する事も出来ません。
また先に出ている媧燐の弟説もあります。
昌平君の動きとして、何らかの疑念が浮かぶものがあったのかもしれません。
蒙武と昌平君は親友
中華最強を目指した蒙武の前に最初から立ちはだかっていたと言える昌平君です。
これは先の一コマでもある蔡沢の言葉からも分かります。
軍略は李牧級で、武力も蒙武級であると介億が言っていました。
幼少期の話ではありましたが、それが描かれる事を考えるに二人は幼馴染の様な存在だったと言えます。
これは什虎戦で描かれた子供の頃の二人です。
この什虎戦は後の昌平君と蒙武の関係破綻の伏線となっています。
よってキングダムにおける昌平君の死は蒙武に殺されて終わりという様な安直なものではないでしょう。
どの地点から昌平君は秦国の裏切りを画策していたのか。
スタンダードに考えるなら王翦の策が取られずに史実では丞相を罷免されたその時でしょう。
この辺りに関してもキングダムでは同じく描かれるのか。
そして最後はやはり蒙武の中華最強を示す意味でも昌平君の一騎打ちを見たいと感じます。
悲しき結末になる気もしますが。
昌平君の生存は無い
楚の後に描かれる最後の戦いはおそらく代と燕の連合との戦になるでしょう。
最初に「李信将軍」と呼ばれている1巻の冒頭は楚へ向かう李信であると考えられます。
もしそうなら李信と蒙恬の敗北から王翦と蒙武を含めた秦国全軍と楚の全軍の戦。
これが最終回に直結する戦である可能性が高いと言えます。
その後の戦は幾つか特筆すべきポイントがあると言えども、盛り上がりで見れば薄まってしまいます。
昌平君を殺し、項燕の自害によって楚の陥落が終了して、そこからはエピローグ的な扱いになるかもしれません。
もしそうならないのだとすれば、楚や趙を含めた若い世代が全て集まっての燕と代の連合戦になるでしょう。
ここでは王翦や蒙武といった武将ではなく、新しい世代と言える李信や王賁が軸になり戦を仕掛けています。
昌平君の死亡。
これは抗えない事実となってキングダムでも描かれる事になります。
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